祈りとは神の声を聞くことである――マザー・テレサ『愛と祈りのことば』(渡辺和子訳)を読む(全2回)
若松と大瀧の対話


※12分間の書き起こしです。話し言葉、表記の不統一などの不備もございますが、談話そのままの雰囲気といたしまして、お読みいただけましたら幸いです。

 

◎マザー・テレサの本も、取り上げますね。もちろんマザー・テレサは有名なので名前は知っているけれど、何か本を読む、っていう感じがあまりなくて。

それはとっても正当な反応なんですよね。なぜかというと、マザー・テレサは生涯に本を残さなかったの。


◎じゃあその取り上げる本はご本人が書いたわけではないと

ご本人が語った言葉なんです。いろんなところで語ってるから、いろんな人が言葉を書き写して記録しているわけですね。そういう言葉を集めた本なんです。

◎タイトルなんでしたっけ。

『愛と祈りの言葉』。翻訳者は、ほらあの、『おかれた場所で咲きなさい』…

◎あぁ、渡辺和子さん。

渡辺和子さん。お目にかかりましたね。
マザー・テレサの言葉は書いた言葉じゃないから、僕はいいなと思って。
考えた言葉じゃないから、本当に人に向かって、今はそこにいる人に向かって真剣に語ってる言葉だから、書いた言葉とは別種の力があるんですよ。もう本当に、なんて言うんだろうな、頭で考えてなんかいないから、生きて、その人だけに向かって語ってるような意味のところもあって。そういう言葉だけが持つ力で、一冊の本ができている。
マザー・テレサのこの本、世界中で生まれてるわけですよ。世界中である意味ベストセラーになってるのには、そこに理由があるんだと思うんですね。
マザー・テレサってすごく偉い人で、ノーベル平和賞も取っちゃって、もう雲の上の人だみたいなイメージあるかもしれませんけど、ぜんぜんそうじゃなくて、ものすごく苦しんだ人なの、この人は。


◎苦しむっていうのは?

この人はね、自分が神に見捨てられてるんじゃないかっていうふうに苦しんだのが、亡くなってからわかるんですよ。手紙が残ってて。シスターは、自分を指導してくれる神父様がいるんだけれど、そういう人に書いた手紙が出てきて、自分は本当に闇の中にいるようだ、って。あんな人がこんなに苦しむのかって。
その姿を見ているとやっぱり、マザー・テレサは、自分のことで苦しんでるんじゃないことが、だんだんわかってくるんですよ。時代の闇みたいなもの。あるいはこの人間の闇みたいなものをやっぱり背負うんだね、こういう人は。
こういう人にわれわれの苦しみが背負われて、そしてそれが愛や祈りに昇華していく、姿を変えていくって、それはなんと尊いだろうと思うんだよ。だって、僕が苦しめば苦しむほど、どこかに、世界に、愛が生まれ祈りが生まれるなんて、考えてもみないじゃない。
苦しみは苦しみ、嫌なことは嫌。でもそうじゃなくて、苦しめば苦しむほど、ああいう何か特異な力を持った人を通じて、それが愛と祈りに変じるなんて、すごいことでしょ。
でもね、そんなことあるのってお思いになるかもしれないけど、マザーの言葉を読んでいると、あぁ、なるほどな、と思うんですよ。それは実は、キリストの生涯がそういう生涯なわけですよね。キリストの生涯は人間の罪と苦しみを背負って十字架上で死んだ、それでイエスが何をわれわれに残してくれたかって言うと、愛なんですよ。愛と祈りなんだ。
だからやっぱり、人間の苦しみ、人間の中にあるよからぬもの、われわれを苛むものというものを、ある人がそれを受け取ると違うものに変わっていくって、そういう力も人間にはあるんだってことですよね。
でもマザーの言葉を読んでると、それはマザー・テレサだからできるんでしょっていうふうにわれわれは読む前は思う。そうじゃないって、マザーは言うわけ。誰にでもできるんだって。実際そうだと思う。マザー・テレサのように時代を背負うとか、人類の何か、仏教的にいえば、何か業を背負うみたいな、そういうことまでできなかったとしても、やっぱり自分と自分の近しい人の何かを背負いながらそれを変容させていくってことは、われわれにもできるんじゃないだろうか。
そんな可能性をわれわれの中に照らし出してくれたら、自分のその生ってものに、誇りを持つことができるじゃないですか。尊いことでしょう。生そのものに誇りを持つことができると思う。
苦しみという、多くの人がもうそんなの捨てちゃいたいって思うようなものが、愛と祈りっていう、宝珠、宝石に変わっていくみたいなところがあるわけじゃないですか。そんなすごいことってないなと思って。

◎なにか、つながりみたいなものを感じられればいいけれども、やっぱり苦しんでるときって孤独だったり、一人だと思ってしまったり、それが、つながっているっていうふうには感じにくいじゃないですか。

感じにくい。だから、みなさんと読んでみたいなと思ってるんですけどね。
だから僕はいろんなところでお話をしてるんですけど、たとえば「できないって思ってること」と「できないこと」は違うし、「意味がないと思ってること」と「意味がない」「意味が存在しない」ってことは違うじゃないですか。
自分が、こんなの意味ないよって思ったとしても、いやそこには意味があります、と。できないと思ったって、できる道はあります、って。そういうようなことを、何かわれわれは早急に考えて結論出しがちなんですけど、こういうマザー・テレサの言葉を読みながら、ちょっと立ち止まってみて、その可能性を探ってみるってのは悪いことじゃないなと思うんですけどね。

◎あと割と、その神とか宗教とかって今までみなさんと読んできたのって、男性が多いじゃないですか。女性という感じは、とくに受けたりします?

もちろんありますね。男性だったら必ず本残してたと思うんですよ。マザー・テレサぐらいの仕事を仮にしてたとしたら、必ず本を書いていたと思う。マザーは、そんなの興味ない、と。言葉を残していくことなんて興味ない。自分が言葉を発することに対してはとても深い関心があるけども、言葉を残して本にしてみたいなことにはまったく興味がない。
生きることそのものっていうのと深くつながりたいっていうのと、言葉を残すことにつながりたいと思うのは、ちょっと方向性が違うんだと思うんですよ。
だからより尊いと思うな、マザーの言葉が。残そうと思った言葉じゃないから、より尊い。残そうと思った言葉っていうより、残る言葉なんだね、やっぱりね。

◎基本的には実践化というか、言葉も大事だけど行動っていうところが大きいわけですよね。私も、イメージでしかないですけど、貧しい人、ホームレスの人、そういう人たちに声をかけたり食べ物をあげたり、そういうことをされてた方なんだろうなって。 活動自体は調べればわかることなんだけど、それを現代のわたしたちが読む、どういうふうに考えたり愛とか祈りっていうものにつなげていったのかというのを今読む、っていう意味は、何かあります?

われわれも苦しんだり、苛まれたり、希望を失ったり光を失ったり、いろんなことあるじゃないですか。そういうことは、経済的な状況に関わりなく起こる。だから、経済的なまずしさにマザー・テレサが手を差し伸べたという、あるいは物理的な孤独に手を差し伸べたというところに目が行きがちなんですけど、彼女は、ぜんぜん違うって言ってるんです。それは行政ができることだ、行政がサービスを高めていけばいい。
マザー・テレサはそういう批判も受けるんですよ、しばしば。あなたたちがやってることなんてそこそこにして、もっと行政に働きかけて広くあまねくやったらいいじゃないですか、ってなことを言う人がいるんだよ。
マザーはそこにこう答えているんです、われわれは慈善事業をしているのではないです、と。われわれは一人一人の人に愛を届けているんです。行政は決して愛を届けることはしませんから、ってことを言うんです。本当にそうだと思うの。
もう一つは、私は出会う人の中に神を見る、っていうわけ、マザー・テレサは。僕は、この言葉は本当に胸が熱くなるんだけど、マザー・テレサが僕の中に神を見てくれるって言うと、僕らはマザーの眼差しを感じるじゃないですか。そうすると、自分の中に神がいるんだってことを、やっぱり人は気がつくんだと思うんだよ。
たとえば人って、人を抱きしめたりすることがあるじゃないですか。で、抱きしめると自分がここにいるなってことがわかるじゃないですか。マザーの眼差しは、そういう眼差しなんだと思うんですよ。マザーに見られることで、自分の中にいる神がわかる。


◎それは本当にマザーがここにいたらそうでしょうけど、本を読むことでもそうなるんでしょうか。

なりますね。言葉ってものすごい力を持っているから。「読むと書く」はもうすぐ10年ですよ。この10年間、それはもうずっと考えていて、言葉っていうのは、書いた人、語った人のおもいというものを宿し、そのはたらきをちゃんと、そこに貯蔵する力を持っているんです。生きてる。だから論語は今も、孔子の息吹をわれわれに伝えてくれる。今も生きてるんですよ。
マザーテレサの言葉も、ちゃんと深く読むことができれば、今申し上げたような、マザーの眼差しみたいなものを感じることができる。だから僕の師匠の井上洋治神父は、聖書を読むことはイエスの眼差しを感じることだって言ってました。

◎やっぱりこの受け手側の感受性というか、そういうものを柔らかくしていく必要がありますね。

そうです、そうです。本を記号的に読むとかね、意味を解釈するとか、そこにある深さをくみ取るだけじゃなくて、それが本当に今も躍動している何かであって、人間の生けるものを今も宿しているんだっていうところまで読み込んでいくことが、実際にできるから。
むしろそういうふうに読まれてこなければ、聖書なんて、今日まで読み継がれることはなかったと思いますよ。


◎確かにちょっと退屈な書物になっちゃいますよね。

そう、聖書って頭で読むと、ものすごい退屈な本です。だけど井上洋治の言葉を借りれば、そのイエスの眼差しを感じていけるような通路が開くと、もう、ものすごいものに変わる、それは。僕はみなさん「読むと書く」っていうこの一連の講座でやりたいのは、もうね、ただその一点だと言ってもいいぐらい。

◎通路を開くってこと?

通路を開くってことだし、コンクリートのように見える、だけどその扉をばあっと開くと、本当に豊かな海でも山でも風でも、何でもいいんだけど、本当に豊かな自然があって、そこに、われわれと本当に一つになれるように何かがある、っていうようなのをやっぱりみなさんと経験してみたい。言葉を通じて。
われわれが学校のテストでやっているのって、なんかもうコンクリート打ちっ放しみたいになってて叩いても割れない、みたいなね。割れないんだけど、すーっとそこが扉を開いていくような、そういう経験を、みなさんと深めたいですね。

◎今回はまず、みなさんと、あの眼差しを感じられるような講座になるといいですね。



祈りとは神の声を聞くことである――マザー・テレサ『愛と祈りのことば』(渡辺和子訳)を読む(全2回)
■第2回(最終回) 2022年12月13日(火)19:20-21:00
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