馬と言葉

 馬と人間との関係は、言葉と人間との関係に似ている。そう感じたのは馬術のレッスンを見学しているときのことでした。
 トレーナーの発言が、日ごろ、私が詩やエッセイをめぐる講座で話していることとそっくりだったのです。
 トレーナーは、ライダーにこう言っていました。
 「馬が先生だから、馬に学ぶように乗って」
 あるいは、思うように動かないときは、馬を疑うのではなく、自分が間違った合図を出しているかもしれないと思い直すようにとも言っていました。
 人もまた、言葉に学ぶことができます。言葉を誤った理解で用いてうまく伝わらないということはよくあることです。
 
 想像してみてください。
 まず、馬にまたがると、まったく違う視界が開けてきます。
 同じように言葉を用いることによって、見えなかったものが見えてくる。こうしたことは多くの人が経験しているのではないでしょうか。
 馬には人間とは比べることができない大きな力が宿っています。
 言葉も同じです。「花」という小さな言葉には、地球が生まれてから終わるまでに咲くすべての花が意味として潜んでいるのです。
 人は、馬と一つになることで、自分だけではできない美を表現することができる。この点でも馬は言葉とそっくりです。胸の中にあるときは、自分を苦しめるだけのように思われたことを言葉にしてみることで、そこに大きなちからを感じることは少なくありません。
 馬と人間の関係で、もっとも重要なのは信頼です。さらにいえば愛です。
 この点でも言葉と似ています。言葉への信頼と愛がないところでは何も表現できません。
 馬術で重要なのは、決められた動きを間違いなく行うことだけではありません。その人、その馬がそのときに表現し得る最高のものを実現することです。
 書くことも同じです。その人の意志、言葉とのつながり、そして、時のちからが一つになるとき、世に二つとない文章が生まれるのです。
 
 馬術は、馬と人がひとつになって試みる「芸術」です。芸術で重要なのは、いのちの躍動があることです。
 馬は大きないのちです。もちろん、私たちもまた一つのいのちです。
 馬を抱きしめるとき人は、いのちの躍動を感じるだけでなく、自我の奥で生きている「自己」の存在に気が付きます。
 言葉もまた「生きて」います。一つの言葉を強く胸に抱く。そのとき言葉が光となって照らし出すのも自我であるよりも「自己」なのです。

若松英輔




馬術と言葉

馬術、それは人と馬が術を用いて、ともに何かを表現する一つの芸術です。
術とは目には見えない大いなる力を借りて、人知を超えたことを成すという意味を持ちます。
また、馬術には茶道、書道、武道などにも通ずる「道」の側面もあります。
道とは、理(ことわり)を学び続ける飽くなき探求、その終わりのない道程で、人は人として成熟し、より自己(本当の自分)に近づいていきます。
馬と人(ライダー)、言葉と人(書き手)の関係がとてもよく似ていることに気づいたのは共に仕事をして来た若松英輔でした。 馬と会話するのは言葉ではなく、哲学者・井筒俊彦の言うカタカナのコトバによってです。
コトバは意味そのもの。馬に対しては座骨の動き、脚の位置や触れ具合、こぶしを握る強さや体重移動、目線、呼吸さえもがコトバになりえます。
芸術は全てこのコトバを使って表現されています。例えば絵であれば絵具の色や線、筆圧など、音楽であれば楽器の音や音階、旋律などがそれにあたります。
文学も言葉とコトバを使って表現する芸術の一つです。
人からのコトバを繊細に感じながら、ときに馬は躍動し、ときに立ち止まり、再び共に動き出します。一瞬たりとも完全に同一なときなどありません。当たり前のことですが馬も人も生きているからです。そして、言葉もまた生きている、そう私たちは考えます。
馬や馬術を見ることで、そこに流れる「術」の世界を感じ取っていただけたら幸いです。

言葉とコトバ社 馬術部部長
大瀧純子



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