講座に参加された方のご感想

今でも、半年程前に初めて参加した日の感動を、鮮明に思い出すことができます。

小川美輪子さん(40代・観光案内・奈良県)

若松さんの全身全霊の講義に触れて、私の内面で眠っていたコトバたちが、 雪解け水のように、全身を駆け巡り始めました。
毎月通う内に、私にとって「書く」ということは、ただ、自分を表現するというだけでなく、静かに自己、あるいは大いなる存在と語り合うという点で瞑想的で、また、心の深層を覗いて、内なる自己の声を聴き、受け容れ、癒していくという点では、自己カウンセリングのようなものになっています。
最初の講義で仰られた「自分の言葉で、自分を癒すことができる」ということが、少しずつわかってきたように思います。 講座を通して、深く読まれた言葉や書かれた言葉は、心の奥深くに刻み込まれ、ふとした折に、心の表層に蘇ってきて、何度も私自身を励ましてくれました。
今後も、「読むと書く」ことを続けながら、人生の一歩一歩を、私らしく進んでいきたいと思っています。


試行錯誤を重ねながら、読むことと書くこととは何かを考えつつ日々実践すると、行き着くところ、自分を誤魔化すことが難しいと感じるようになりました。

ハナコさん(50代・会社員・神奈川県)

自己と真剣に向き合うことが求められ、自然と孤独が深まります。
自己の内部には、考えるという行為によって静かに立ち上がってくる、淡い空間が確かにあるのだと実感します。そこでは言葉になることを待っている、いくつものイメージのかけらが行き来している。たとえすぐに消え去ってしまう儚い形姿だったとしても、一度在ることを知れば、いつかまた会えるような愛しく懐かしい場所。通勤電車に揺られているような時に、ひょいと言葉となって現れたりする存在があります。
途切れることなく、ずっと続いている日常の経験は捨てたものではないようです。こうして生活を信頼して生きていける。日々生じるさまざまなことはただの繰り返しではなく、言葉は近しくも、まったく新しい意味を帯びていくように感じられます。


「読む」ことを通じて出会った様々なコトバが、記憶の底に沈殿し、互いに反応し、熟成されて、ある時、ハッと急に視界が開けるように、自分のコトバが浮かび上がってきます。

E.M.(40代・自営業 ・東京都)

それを掬い上げて、書きます。「書く」ことによって、コトバが肉体に浸透し、それを拘束し、実際の行動や物の感じ方も変化していきます。肉体が変成し、知覚が変成していく。
「読む」そして「書く」という営みが、これほどまでに、自身を変化させるものだとは思いもよらないことでした。このように、自身が変化し、知覚が拡張していくような境地に、自分ひとりで辿りつくことは難しかったでしょう。講座では、書いた文章を提出するのですが、その文章に対して、評価ではなく応答があります。この応答に、書き手に対する静かな励ましを感じてきました。その肯定の眼差しに支えられて、ここまで来ました。ありがとうございました。


講座で、さらりさらりと語られる若松さんのことばは、湧いた水が溢れるようにながれてゆきます。とどまることなくめぐり、からだのすみずみ、細部までいきわたるようです。

S.K.(40代・作業療法士・岐阜県)

さらに溢れて、足元の地を潜り、はるか彼方の過去をもたどり、頭上の天めがけて噴き出し、まだ見ぬこれからを揺さぶり、わたしを突き破り奥へ奥へと入り込み、今ここを取り囲み浮かび上がらせました。
ききもらさぬよう、ことばをつかまえようとしていたつもりが、わたし自身まで溢れだし、渦を巻いてその中に居ることしかできなくなりました。
震えがとまりませんでした。
若松さんの、取り上げられた作家の、生きた時間をなぞり、その奥の奥にあるであろう、要石のような動かしがたいものの存在を感じながら、わたしの生きた時間や要石をありありと感じる時間となりました。そこにとどまる恐れを、なくすこともできました。
評価、判断されるためのものではない、いつか、わたしを支えることになるかもしれない、わたしのことば。ときに懸命にときに朗らかに、むきあい紡ぐことに、躊躇や嘲笑をなくすことができました。
提出した課題は、読み返すだけで、その中に佇むことのできる大切な場所のようなことばとなりました。 ほんとうにありがとうございました。


「体が青空に反応しないのです。」 講座の課題で書いた文章で、若松英輔さんが赤ボールペンで掬ってくれた一行。

川島紀良さん(40代・フリーランスフォトグラファー・東京都)

友への手紙のかたちをとった中、いつのまにか自身の今を書いていた。この一行はカメラマンにとって大変なことです(実際はちょっと違う言葉だったかも知れませんが)と言われ、でも、大変なこと、は、大切なこと、とも聞こえた。掬われた一行を、2年間、レギュラークラスの月一回の講座で、言葉と受講生の仲間とともに、うまく動かない体でも使い、書き読むことで、焦らずじっくりと育ててきた。
今、見える空に写真を置く。6年ぶりに写真展を行う。私の体が、「青空」は身を賭して誰かと作るもの、と教わった。読むと書く、はそんな誰かがかつて居た、今も居る場所。


「読み終えられない本があっていい」「わからないものは、わからないままにしておけばよい」…若松先生は“読書はこうあるべき”の枠を軽々と飛び超えます。

M.H. (30代・自営業・千葉県)

流れる言葉は安らかな旋律のように染み入って、何を強いるわけでもありませんが、全方位から迫ってくるようです。先生の「読み」に目がひらき、またひとつ向こうの地平へ導かれます。そして言葉に洗われた魂は、気づけば深いところで熱量を増していて、もっと言葉と向き合いたくなります。「書きたい」こんな感触は初めてです。
古今東西の膨大な叡知から何を選び、学び取るのか。先人たちから私たちへ届いた宿題を握りしめ、若松先生は勇敢に道案内してくださいます。埋もれそうな言葉に呼びかけ、新しい世界へとつらなる道行きには光を感じます。言葉への敬意と感謝が自然とにじむような講座です。これからも大切なものを学ばせていただきたいです。


若松先生が提案して下さる課題が、とても深いと感じています。 一度書き終えた後も考え続けることができ、終わることがないのです。

M. T. (40代・カウンセラー・東京都)

課題を一度自分の内に沈みこませ、思いを巡らせていくと、内側から言葉が生まれたがっている瞬間に出会うことができます。
その瞬間がやってくると、それを逃さないよう、急いでペンを走らせたりしています。
教室を出ても、感じる時間、言葉が生まれる時間は続くのです。
それは、人生を感じる力を養うことや、実感を深めることにも繋がっていて、読むことと書くことの奥深さを改めて感じています。
選ばれる本も上質なものばかりで、自然と読書の幅が広がりました。 今まで、自分に馴染まない文体の本には手が伸びないこともあったのですが、それは勿体ないことだったと感じています。 また私にとってクラスは、感性と思考の繋がりと循環を感じることができる大切な時間でもあります。 言葉を通して世界と出会える、豊かな時間を頂いています。


美しいものに触れ、動いた心をそのまま文章に残したい、そう思って講座に参加した。

大野 浩さん(60代・東京都)

文章の一節一節を味わいながら読み、講師や他の受講生の助けを借りながら、自分の中に落としていく。読んだことがない、名前さえ知らなかった著者にも出会うことができた。
そんな著者との交わり、講座の時間で得た呼吸を感じながら、自分の文章を書く。読むことと書くことの円環は、これまで気づかなかった日常のささいな物事にひそむ豊かさそして美しさに光を照らした。

老いていま小さきものの声聞こゆ 忘れおきし魂(たま)いずこにありや

講座に参加して3年目に入った今の思いである。
講座で提出した文章は、手応えを感じるもの、いまひとつのもの、様々であるが、いずれもこうして探した魂の確かな証しである。
「読むと書く」は、定年後の私がいちばん大切にしている時間である。


東日本大震災後に出版された、大切な人を失った悲しみに寄り添う若松先生の「魂に触れる」という本を読んで、この講座に参加させていただくようになりました。

松本祥佳さん(40代・芸術団体勤務・東京都)

最初の講座で、自分の心の深いところに降りていくような感じ、と書くことについて教えていただいたことで、書く感覚が変わったと感じます。
あなただけのかけがえのない言葉を、という若松先生の静かな声に導かれて、気がつかずにいた心の深いところで感じていた愛や美が、予期せぬ言葉としてあらわれ、私を励ましてくれてもおり、この講座と、ここで生まれる言葉との出会いがとても大切な時間となっています。同時に若松先生を通じて出会う先人たちの言葉も、私の魂と響きあうとても大切な光となっています。読むと書くと言う講座でなければ生まれない様々な出会いに感謝し、感じた美、光、そして描きたい美、光を言葉として分かち合い、未来を紡いでいきたく思います。


講座を受け始めた頃、若松さんがやさしい言葉でただならぬことを言っているのに気づき、急いでノートにペンを走らせました。

A.U.(50代・校正者・神奈川県)

・文を書くとき、それが自分の書く最後の文かも知れないと思って書く。
・言葉が自分に訪れる瞬間がある。モチーフは、すでに全て自分の中にあるから。
・どういう言葉が、自分の灯りとなるのか? たとえば、死のうとする人間の心に、もう一度灯をともす言葉は?
・ほんとうのことを書く。ほんとうのことはすべて美しい。これだけは書いておきたいというものの原点・魂
・テーマに出会ったときに書く。そういった、ぼんやりとうごめくものが、段階的に出てくるのを待つ。
・好きな作品を何度も何度も書き写す。なぞる。あたかも絵筆を重ねるように。芸術とは眺めるものではない、使うのだ。
メモをとりながら、心が震えました。私はこれを銘記しています。


はじめて講座に参加したとき、若松さんのおっしゃることの半分もわからなかった。コトバは意識の底から浮かび上がる、とかそんなことを聞きながら、読み、書いているうちにあっという間に時間が過ぎた。

中田実希さん(20代・求職中・岐阜県)

きらめくような混乱の中、課題図書『ミラノ 霧の風景』の白く美しい街の感触と、沖縄の母を浮かべて書いた詩を抱いて、くらくらしながら帰路についた。
どうしたら上手く書けるとか、作者の意図はなにか、という所から遠い真実がある。胸から湧く言葉がただ嬉しかった。若松さんが勧める本を読むたびに、甘い泉に手をつっこんでいるようだった。 
あれから二年が経った。いまだに響く若松さんの声と出会ってきた言葉たちがある。いったいどこへ導かれるのかわからぬまま、汲み取られる言葉の源の大きな海をおもう。この海を自由に泳いでいいのだ、と知った喜びを言葉にすることができない。


「読むと書く」に出会ってから、生きることと読むこと、書くことが、少しずつつながりはじめています。

A.K.(40代・会社員・東京都)

気ぜわしい日々のなか、読むことから長く遠ざかり書くことなどまったく考えもしなかったのに、この講座にはなぜか、行かなければとおもいました。参加して感じているのは、読むことで内側に糸を垂らし、書くことでじぶんを開いてゆくようなイメージです。ことばに映しだされて初めて、内に眠るものに気づかされることもあります。まだまだ途上だけれど、生きてゆくのに必要な営為だとおもうようになりました。
かたちなき扉よりもれさすひかりを/掌にうけとめて
内に眠るちいさな貝に耳をあてる
ふうわり浮かぶ声と手をつなげたら/生まれたかおりを空へとはなつ